知っておきたいアンティーク用語事典















ラダーバックチェアー
背がはしご状になった椅子。アーリーアメリカンやシェーカー家具によく見られる。
ラリック
背ルネ・ジュール・ラリックは1860年、シャンパーニュ地方のアイという小さな村で生まれた。1876年に母親の勧めでパリの装飾美術学校に入学し、同時に金属細工師のルイ・オーコックに師事し、装飾の技術を習った。このときの装飾作家としての修行が後のラリックに大きな影響を与えることになるのである。

1880年からアールヌーボーと呼ばれる新しい芸術のスタイルが起こり、ラリックも次第に宝飾作家として大胆かつ斬新なデザインが注目されるようになった。それは同業者たちの意表をつき、上流社会の婦人を熱狂させ、1900年のパリ万博においては女性装身具のデザイナーとして決定的な名声を得るにいたった。

それによって彼の作品に対する人気は高まり、ベルリン、ハンブルグ、ロンドン、ニューヨーク、そしてパリの有名美術館、さらにヨーロッパ各国の王室、アジアの富豪までもがこぞって彼の宝飾を買い求めた。また、その装飾品は高価な宝石よりもむしろ比較的安価な貴石やガラスを加工して使っていたが、中世の錬金術師に喩えられるほど価値の高い作品を生み出していった。

ところが、ラリックに宝飾作家としての名声を捨て、ガラス作家へ転向させる機会が訪れる。それは香水商コティが香水瓶のラベルのデザインをラリックに依頼したことに始まる。 最初に紙に金であしらったラベルを数枚作り、次にガラスのラベルを作り、そしてバカラの瓶に貼り付けて売り出された香水瓶は大変な人気を博した。さらにコティから香りの宝石を入れるにふさわしい香水瓶のデザインを注文され、ルクラの工房でつくられた香水瓶は香水のイメージを高めるのに成功し、その結果、他の香水瓶メーカーからも大量の注文が寄せられてくるまでに至った。

1945年に亡くなるまでラリックは数多くの芸術品を生み出し、香水瓶だけでも300点近いデザインをコティ、ドルセー、ゲラン、ニナ・リッチなど多くの香水商に提供した。作品の質に対しては決して妥協を許さず、常にガラスの新しい概念を追求しつづけたラリックの魂は彼の子や孫にも受け継がれている。
現在ではラリックの孫娘である、マリー=クロード・ラリック女史が“クリスタル・ラリック”の社名で、デザイナー、経営者として事業を行っている。 (湘南江ノ島香水瓶美術館のHPより)
楽焼(和)
初代長次郎に始まる京都の楽家代々の作(本窯)と、その系譜を引く一族や弟子の作(脇窯)の総称。安土・桃山時代に帰化人・阿米夜が創始したとされる。
千利休の創意を受けてつくられた茶碗など、茶の湯に大きな役割を果たした。茶碗は赤楽と黒楽が中心。
螺鈿(和)
平らにすり磨いた貝殻を文様に切り取り、うるしや紫檀の木地に埋め込んだ技法。


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